献金の話:。プロテスタント教会の献金について受洗後20年以上経つクリスチャンです。今まで通っていた教会は収入の十分の一を献金するという教会でした。
わたしもそれが当然と思っていたのですが、最近引っ越しを期に新しい教会に転会し、その教会の資料によると、その教会の月定献金額は平均3~5000円程度であることがわかりました。裕福な人達が暮らす地域にある大きい教会です。その資料をたまたま未信者の夫に見られ、「献金額をもう少し減らしてもよいのではないか」と相談されています。今までは私の収入の十分の一である2万円ほどを献金していました。未信者の夫から見れば当然大きい額ですから、すったもんだの上でようやく合意してもらえた額でした。理解のある夫だと感謝しています正直どうしたら良いのか悩んでいます。個人的には今まで通り献金したいのですが、夫の気持ちも分かりますし、この教会の方針もわかります。時々教会に足を運んでくれる夫ですが、「献金」は大きい信仰のハードルとなっているようでした。ここでハードルが下がれば、夫にとっても「教会」のハードルが下がるかもしれません。ここで私ひとりが意地を張っていままでの教会の信仰方針に習うのが良いことなのか、わかりません。ただ、「今まで捧げてきた額を減らす」ということに後ろめたさを感じずにはいられないのです。どなたかアドバイスをいただけたら嬉しいです…。ただ、献金することは恵みであり、喜びであることは忘れてはいけません。「なんや、みんなこれっぽっちか、こんくらいで十分やろ」みたいな、教会と牧師に対する敬意がまるでない不真面目な態度はいけません。
また、献金して教会を支えることは信者の義務です。
減らす理由は、あくまで「妻は夫に従う」からです。
お気持ちは敬服いたしますし、
今まで了承されてきたご主人は素晴しい方だと思います。
しかし、はっきり言って、今時十一献金なんて 言っている教会はプロテスタントでも…
カトリックは勿論ながら…
珍しいと思います。
失礼な事を申し上げますが、かなりカルトがかった教会がほとんどだと思います。
私は福音派かなり原理主義のインマヌエル派の牧師先生を存じ上げてましたが、
その先生の教会…
神社の鳥居をくぐる事も進化論も許さない教会…
でさえ献金は生活に影響を及ぼさない程度で結構ですよと言ってました。
イエス様の時代と今ではお金の価値も生活水準も違います。
質問者さんは、苦しい思いをしてでもそれを続けられたというのは、ご自身、かなり高収入なご家庭と推察しますが、
多くの人々にとって今時十一献金なんて、
近代日本で牧師は裸足でシャツも着替えず宣教しろと言うのと同じくらい無理です!
裸足はまだしも毎日下着を替えない牧師なんて臭そうで、こっちの方が嫌です!
私の教会…カトリックではありますが…
で二万円も献金してくださっているのは私立ながら大きな病院の理事長兼院長をされてる方一人だけです。
5000円で十分!
日本の一般的平均年収なら、3000円でも十分です。
皆さん貴重なご意見ありがとうございました。それぞれに参考になりました。「合法詐欺」と言われる一名を除き
教会を支えていく義務は感じています。夫の許す範囲で、奉仕にしても献金にしても精一杯の事をしていこうと思います。
月定献金を減らす…
そんなことして、アナニヤとサッピラ使徒5:1-11みたいなことになったら、大変ですね。
もちろん、冗談です笑。あの夫婦が神の裁きを受けて死んだのは、十一献金をしなかったからではなく、教会と使徒にウソをついたからです。教会と使徒に嘘をつくというのは、神に対してウソをつくのと同じことです。
旦那さんが献金を減らすべきとおっしゃってるのですね。聖書の教えによれば、夫に従うことは妻の義務ですエペソ5:22。
ここは一つ、旦那さんの意見に従い献金を減らすのがいいかもしれません。二万円を一万円にするとか。
いずれにせよ、祈ってお決めください。
もともと旧約聖書の十分の一、十五分の一、二十分の一というのは、神殿に納める税金なんだよ。よく、什一献金の根拠として引用されるマラキ書の「私を試してみよ」も、よく読めば、イスラエルの民が神殿に税金を納めず、あるいは上層部がお金を着服するようになり、神が怒っている場面だと分かる。同時に、クリスチャンであれば、イエスの引用した「神を試みてはならない」という言葉も思い出せるはず。で、十分の一という税率はローマ帝国でも同じようなものだったので、中世ヨーロッパではずっと「十分の一税」が課されていた。けれども、宗教改革の時代になると、政府に納める「強制的な税金」と、教会に献げる「自発的な献金」が区別されるようになった。そして自発的な献金は、別に十分の一にこだわらず、それよりも「心から捧げること」が大事だと言われるようになった。そもそも現代の我々は、すでに収入の十分の一以上の「強制的な税金」を政府に払っているよね。すべての権威は神に由来するのだから、実際あなたは五分の一以上の献金をずっと払ってきたんだよ。—近年になって「繁栄の神学」という、いわば「神に祝福された人生は成功する!」と主張する人々が現れた。一概には言えないものの、任意ではなくやけに什一献金を強調するなと思ったら、この人々だと思っていいよ。
なぜ今までどおり献金したいのか、その動機はどのようなものでしょうか。収入の十分の一を捧げることを、キリスト教?プロテスタントでは教えられていますが、それは現代においては、聖書に根拠を持たない教えです。?什一献金は神様にお返しするためのもの。しない者は神様のものを盗んでいる?こうした言葉は、キリスト教?プロテスタントで、まことしやかに語られていますが、聖書の本筋を外しています。私たちが生かされている現代は、キリストの十字架、復活、昇天後であり、「新約」の時代です。ですので「旧約」に書かれている「捧げもの」とは、献金の本質が異なります。 レビ記など旧約聖書に書かれているモーセ律法の制度は、イスラエル民族の行動原則また価値基準であり、神権国家イスラエルの税金制度でもありました。 イエス?キリストの十字架により律法は完成、完了しているので、クリスチャンはモーセ律法の支配下にはありません。ですので、現代のクリスチャンにそのままの適用することは、聖書の文脈を無視している、といえます。マタイ23:23で、イエスがパリサイ人に「十分の一をおろそかにしてはいけない」と語っていますが、イエスの十字架以前は旧約時代であり、パリサイ人はモーセ律法の支配下にあるイスラエル人であることを忘れてはなりません。マラキ書に書かれている御言葉をもとに「十分の一を捧げる制度」を正当化することもできません。それは旧約時代のイスラエル人に語られてる言葉であり、現代のクリスチャンにそのまま適用することはできませんし、還ってくる祝福を念頭にて献金することは、御利益信仰であり的を外れています。イエスキリストの十字架以降、聖書には「十分の一を捧げる制度」を教えている箇所はありません。使徒行伝15章に書かれている「エルサレム会議」において、異邦人クリスチャンに、収入の十分の一を捧げる、ということは語られていません。収入の十分の一を捧げる、というのは、現代のクリスチャンにとっては、聖書的な教えではありません。さて、ここまで読んでいただいたうえで、なお、今まで捧げてきた額を減らすということに後ろめたさを感じるのであれば、偶像に捧げた肉と同様、ご自身の良心のために、これまでどおり捧げることがよいでしょう。なお、新約の献金は、貧しい人に施すこと、クリスチャンの必要を備えること、です。ローマ12:13、同15:26、ガラテヤ2:10その金額や方法はⅡコリント9章に書いてるとおり、個人の自由です。収入の十分の一を捧げることは当然ながら許されていますし、収入の十分の九を捧げても構いません。また、収入の百分の一でも、なんら問題ありません。私が個人的にオススメするのは、ご主人の意見に従うことです。@Ⅰペテロ口語訳 3:1 同じように、妻たる者よ。夫に仕えなさい。そうすれば、たとい御言に従わない夫であっても、 3:2 あなたがたのうやうやしく清い行いを見て、その妻の無言の行いによって、救に入れられるようになるであろう。質問者さんの益となれば、幸いです。
献金の話:。今日は、クリスチャンになれば教会から真っ先に求められる什一献金について考えてみます。 . 月収50万円の収入がある人が十分の一である5万円を献金するのはやさしいのですが、月収20万円の人が2万円を献金されるのは大変です。